グルジア飲み始め 第一夜

こちらの文章は2016年にnote上で連載したエッセイグルジア酔いどれ夜話の再録です。現在の私の考えと異なることや勘違いもありますが面倒臭いので記録の保存という観点から内容を変えずに再録しています。

第一夜
2016/04/12

グルジアの首都、トビリシのゲストハウス「GT HOSTEL」に着いたのは2014年の8月の終わりだった。ウズベキスタンのヌクスから一昼夜、列車で国境と砂漠を越え、カザフスタンのアクタウへ。着くなり飛行場に直行して飛行機がカスピ海を渡ってアゼルバイジャンのバクー空港に着くとトビリシ行きの乗り換え便まで8時間の待ち時間。トビリシの空港から市街まで来た時には本当にもう、ヨレヨレに疲れていた。

バスに乗っていると古そうな教会の横を何度も通り過ぎる。その度に乗客の何人かは胸に十字を切ってる。グルジアに来たんだと感じる。

グルジアはこれまで通ったカザフスタンやウズベキスタンよりも比較的物価の安い国と聞いていたし、それらのイスラム国家と異なって正教会が国教ということもありワインの名産地らしい。このトビリシという街でしばらくはゆっくり身体を休めながらワインを飲んでみるのも悪くないなと思っていた。

たどり着いた宿のオーナーは粗野と愛嬌がごちゃ混ぜになったような男で、名前をトトといった。自分の家を改造して作ったこの宿では誰よりも偉そうに、そのくせ誰にでも気さくにふるまっている。親日家で日本人と知るとのべつまくなしに日本のことを聞いてきた。映画の話題:北野武や黒澤明は定番として、文学:芥川龍之介と安部公房、アニメ:サムライチャンプルーとグレンダイザー、音楽:Nujabesと梶芽衣子etc… 見かけによらず博識でどうもほかで会うアジア人や欧米人とは違うチャンネルで日本を知ってるような感じ。答えていて楽しい。いつも切って貼ったような「どれだけハルキ ムラカミがスゴいのか」論を聞かされるのに飽き飽きしてた耳には、新鮮な日本の話題だった。初対面からすぐに打ち解けることができたのだけど、このトトとの出会いがその後のグルジア移住にいたる全ての始まりだったのだ。


この男がグルジアの最初の友だちトト。キメ顔とバカ顔。

グルジアの男たちはヒゲを生やしたのがかなり多い。日本の友だちに彼らの写真を見せるとイスラム国?と半ば本気で聞かれることもあるけど、なんとなくその気持ちはわかる。だまってるとちょっと怖い。でも「イスラム圏の男はヒゲを伸ばしている」というのはどうやら僕らのステレオタイプらしくって、ウズベキスタンでもトルコでもイランでも、ヒゲをきれいに剃ってる男が意外なほど多いってことをこの旅行で感じていた。

僕はこの旅行で中国の新疆ウイグル地区、キルギス、ウズベキスタン、カザフスタン、イランとシルクロードのイスラム圏を中心に回ろうと計画していた。それで自分もヒゲがあった方がローカルの人間と仲良くなれるんじゃないかと思ってプロフィール写真にある鼻ヒゲを生やしてみた。ところが期待とはうらはらに、これらのイスラム圏での評判は全然よくなかった。ヒゲ=ダサい。「絶対剃った方がいい」、と何度も言われてずいぶん落ち込んだ。

自分なりに分析してみると旧ソ連構成国家であるキルギス、ウズベキスタン、カザフスタンではソ連時代にヒゲが古いイスラムの因習のようにプロパガンダされていたのか、ソ連崩壊独立後の今もヒゲはオールドファッションでダサい、と一般に認識されてるみたいだった。

イランも状況は似ていて、イランの宗教独裁を嫌うリベラルなイラン人はヒゲ自体をイランの支配層に多いモッラー(神学者)の象徴ととらえており、モッサリたくわえたヒゲを嫌う傾向があった。

キリスト教圏のグルジアでは、来てすぐにヨーロッパ然とした街並みやオシャレな格好をした若い女たちが見れたので男たちもさぞやスマートなファッションをしてるかと思いきや、圧倒的にヒゲ面が多かった。そしてまた僕のアジアンヒゲフェイスも異様にウケがよかった。勝手な予想ほど当たらないものはないのかもしれない。

グルジアってどんな国なのか。グルジアの後訪ねようと考えていたイランのことばかり調べていた僕は当時、グルジアのことをほとんどなんにも知らなかった。

グルジアは人口400万足らず、北にロシア、西にトルコと大国と接し、東、南にはアゼルバイジャンとアルメニアという同じく旧ソ連構成国家と国境を接する国土面積69,700km2(日本の5分の1)とかなり小さな国である。

と原稿を書いていたたった今、すごいニュースが飛び込んできた。グルジアの隣国であるアルメニアとアゼルバイジャンの間で戦闘があったというのだ。

この両国はソ連崩壊後すぐから領土問題で戦争が起きていて90年代半ばまで泥沼の戦闘が続いた歴史的な遺恨を今も引きずっている。今回の衝突の背景にはこの遺恨を利用したロシアとトルコの代理戦争のようなものをうかがわせるらしい。

リンク先の地図を見ると今回の戦闘当事国4国に囲まれたグルジアは本当に小さくまたなんとも居心地が悪そうだってことがわかると思う。グルジアはグルジアでソ連崩壊後の独立以来ロシアとは軍事衝突が2回あり、アブハジア、南オセチアの2地域をロシアに実効支配されたままという経緯があり対露感情は相当に悪い。

グルジアはグルジアでソ連崩壊後の独立以来ロシアとは軍事衝突が2回あり、アブハジア、南オセチアの2地域をロシアに実効支配されたままという経緯があり対露感情は相当に悪い。

今や、世界中どこが安全なのかまったく見当がつかない時代だけれども、まずはグルジア酔いどれ夜話が次回も続けられるよう、事態の収束を祈るしかないな。

話を戻すと、このグルジアは小国ながらアルメニアとともに世界で最も古いキリスト教を国教とした国の一つで、また、古くからシルクロードの交通の要衝にあったので、歴史上幾度もイスラムやロシアの帝国支配下に入ることを余儀なくされた。しかし断固とした信念で正教の信仰と独自の言語、文化を堅持してきた国である……と、そんなようなことがよくグルジアについては言われている。

有名な特産物として挙げられるのは最初の方にも書いたワイン。一説には世界最古のワイン原産地だとか。本当のことはわからないがヨーロッパのワインとは醸造法が異なり、地中に埋めたカメの中でブドウを発酵させる伝統的な手法が残っているのは本当。そのナチュラルで素朴な味わいは昨今日本のワイン業界でも人気が出てきている。と、東京の友だちからも聞いたのだけど、僕は飲んでからのバカ騒ぎが好きなたちで味のことはほとんどわからない。今後もグルジアワインの味や詳細な製法なんかのコラムは期待できないと今のうちに言っておこう。

トビリシに着いたその日、トトは彼の家に遊びに来た(本当は宿なんだけど‥)グルジア人たちの酒盛りに誘ってくれ夕方5時にもならないうちから宿のラウンジで飲み始めた。

早速グルジアワインが飲めるかも!と期待したんだけど彼らが持ってきたのはワインじゃなくて、ウオッカともう一つ、チャチャという蒸留酒だった。

チャチャとはわかりやすく言えばとグルジアのグラッパのことらしい。(自分はグラッパも飲んだことないんだけど)。

ワインの醸造時に残るブドウの搾りかすを再発酵させ、蒸留を重ねて作るのがチャチャ。たいていはグラスボトルに詰めたりしないでコーラやファンタのペットボトルに入れて八百屋なんかでもついでに売られてたりする。アルコールは度数にして40度以上、時には80度を越すこともあるので、それを知らない旅行者には非常に危険な酒でもある。

これらの蒸留酒をショットグラスからストレートであおって、ザクロとやチェリーなんかのフルーツジュースをチェイサーとして胃に流し込むのがグルジア式。

その日、クタクタに疲れていた僕ははじめて飲む強烈なチャチャにやられて夜になってからの記憶が飛んでしまってるのだけれど、翌日また会ったグルジア人たちは今日も飲むぞ!とつかんだ手を離してくれなかったので、おそらく楽しく飲めたに違いない。この日以降、僕は連日ウオッカとチャチャを飲むことになりグルジアワインを飲めたのはそれからずいぶん後のことだったと思う。

この時のグルジア滞在は予想を大きく過ぎて3ヶ月を越えた。毎日のようにトトとその友だちたちとまた、旅行者たちで飲みまくり、飲み疲れると地方観光に逃げ出し、戻ってくるとまた飲む、という生活が続いた。トトと彼のGT HOSTELは、夜静かに休みたい旅行者には最低最悪な宿だったけど、とことん飲んで底抜けに騒ぎたい旅行者には夢のような宿だった。

「必ずまた戻ってくるって!」と約束してグルジアを出た僕はアルメニアに1ヶ月、イランに3ヶ月、現在は内戦状態になってしまったトルコの南東部、クルド人の住む地域を1ヶ月回った。ここいらの地域はどこも伝統的に旅行者を稀人として厚くもてなす風習があるっぽい気がする。ゆく先々でいろんな人たちによくしてもらったが、自分の思いとしてはそろそろグルジアに戻らなくっちゃという気持ちが強くあった。

グルジアに再び戻ってきたのは2015年の春。トトたちはまたも連日再会の宴会を開いてくれたのだった。

春も終わり前の仕事の退職から二年が過ぎると、僕の旅行資金(総資産でもある)はそろそろ底が見え始め、金策を考えなければならない頃合いになっていた。僕と同じようにグルジアが気に入って居着いていたオーストラリアやトルコの友だちも仕事をみつけたり、みつけられなかったのは帰国していた。

もともと興味の薄かったこのグルジアという国に多くの友だちができ、強い愛着ができた一方でグルジアでの再就職という線は絶望的に思われた。

英語教師を除くと外国人就労がそもそも難しい上に2014年のクリミヤ危機に端を発するルーブル暴落以降、そのあおりを受けてグルジア通貨ラリも暴落が続き、先の見えない不況が続いていたのだ。

僕は日本に帰るよりかはもう少し近場で働いてみたいと思って、2016年には経済制裁が解けると予想されていたイラン、中国語話者であれば国籍を問わず仕事があると教わったイスラエルにCV(履歴書)を作って送り始めていた。でもそううまくはいかないし、英語での履歴書作りは七面倒で酒の誘いがあるとすぐ投げ出してしまっていた。

そんなところへひょんなことから知り合った日本企業の出張者がいて、突然仕事のオファーをもらえたのは人生最大級の僥倖だった。

先方からすればグルジアに好きこのんで駐在したがる日本人は稀だったのかもしれないが、こちらとしてもこの未知なる国グルジアにサラリーマン待遇で住めるなんて二度とないチャンス、一も二もなく飛びついた。

夏の間東京で研修を受け、駐在員としてグルジアへ三たび入国したのが2015年の秋。こうして僕の本格的なグルジア飲いどれ生活が始まった。

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グルジア/ジョージアで観光ガイドをしています。お問い合わせはこちらから


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